【リカバリーの物語23】
私のリカバリーの旅
精神障害の当事者にとってリカバリーとは自分の生活の劇的変化、それによるものの見方の変化である。出口の見えない精神障害というトンネルの中で、もがき、挫折し、絶望している本人にとって、リカバリーという体験はどのようなものであろうか?リカバリーはある日突然起こるのであろうか?リカバリーしたらもう問題はそれで良いのだろうか?
精神疾患から立ち直るというのとも違うし、あくまでも個人的な体験なのでそれは道なき道をひとりでさまよい苦しみも味わう。体調の良し悪し、症状のあるなし、服薬の煩わしさ、その他精神障害の当事者であることは、毎日が生きづらく、日常のちょっとしたことや人間関係が煩わしくなってくる。専門医は我々が安定していれば、それでよしとするきらいがないわけではない。
リカバリーとは、こういう精神障害特有の煩わしさは、それはさておいて、自分の夢をもったり目標に向かって生き甲斐を感じたり、人間関係を豊にするといった人生や社会に対してより積極的な態度を病人が持つということである。
こうした考えに対しては、専門医は疑問を持つ人もいるだろう。幻聴や妄想に取りつかれていて、自分の身の回りのことも満足にできないのに何が人生の生きがいだと。そして精神保健福祉サービスからの批判も聞こえる。やれサービス提供者の荷が重くなるとかリカバリーする人はほとんどいないとか専門医の役割を軽んじているとか。だが個人の主体的な社会性を考えるとこれからのサービスにはリカバリーの持つ力強さ、リカバリーした人の強力な体験、エンパワメントを無視できず、専門医もこうした社会運動をないがしろにすることはできないであろう。
プロカバリーもそうである。この言葉の提唱者のスタンスは良いことに「いつでもよい、どこからでも良いから一歩踏み出す」という立場である。そしてその土台に希望を持つことを上げ、希望を持つということは、物事の様々な理由のことで物事は何とかなる、というスタンスである。誰でも失望すればお先真っ暗になる。だから、これからの精神保健福祉サービスは重要な資源として希望を患者に与えることが重要になるのではないかと思う。
サム ウィーカー ジュニア
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