8.
IPSの背景にある問題意識
精神保健福祉サービスの温情的態度つまりパターナリズムは、精神障害者に対して差別と偏見として襲いかかりました。精神障害者は対人関係が苦手で不器用なため社会の中で働くことは無理だからと、熱心な援助者たちにより精神障害者専用の働く場が次々と用意されました。同様に精神障害者には1人暮らしは難しいからと、精神障害者向けの居住施設が用意されてきました。エンパワメントの歴史を踏んでいれば理解いただけると思いますが、このことが精神障害者の一般就労や1人暮らしの可能性をむしろ摘んできてしまいました。このような精神保健福祉サービスが充実していない発展途上国においては、統合失調症患者の予後は先進国に比べて良いという研究結果も紹介されています。分かりやすく言い換えれば、障害者年金や作業所等がない国において急性期を経た精神疾患患者は働かざるを得ず、その結果、一般社会で働きながら過ごしているケースが先進国よりも多いというわけです。地域で熱心に授産活動を行う方たちをよく知っているだけに厳しい指摘だと思いますが、働けないという思い込みが精神障害者を生みだしてきた、という自覚と猛烈な反省がIPSの前提にはあります。
もう1つ、治療者による思い込みがありました。それは幻聴、幻覚、妄想、認知機能の障害といった症状があったら充実した人生を送ることは出来ないに違いない、といったものです。あるいは患者がそれでも充実した人生を過ごしていると言うとき、それは妄想だろうと一刀両断してきたのかもしれません。しかし、精神障害の体験者による手記が正当なものとして取り上げられ、ナラティブ分析されたことからリカバリーの可能性が見えてくるようになりました。リカバリー論は、科学的な心理学等の理論の応用や統計的な処理を経ることでなく、1つ1つの手記や語りの質的分析の積み重ねの上に成立しています。
現在、日本の精神科リハビリテーションは量的研究を経たエビデンスに基づいたプログラム(EBM)に価値を求めることに傾倒していますが、他の医療分野や一部の精神科医療ではEBM研究者たちにより「その科学的な側面があまりにも強調されす」ぎたという反省のもと「医療における全人的な側面、医療従事者と患者の相互交流的な側面の重要性に再度光を当てようとする NBM」の価値が強調されています。NBMとはナラティブ・ベイスト・メディスン(Narrative Based Medicine)の略語です。統計的な分析により論理的に実証されたものもまた1つの物語ですが、そこには集約し切れない個々のリカバリーの実現こそがIPSの目指すところなのです。
わが国でIPSが実践されるにあたり、この問題意識の共有を経ないと、形式的な就職率向上マシーンが量産されてしまいかねません。これらの問題意識は障害の社会モデルとも言われ、例えば障害者権利条約に関する議論の中でも観察することができます。IPSの7原則に熱中する前に、これらを確認するのが好ましいでしょう。
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